最近インスタのタイムラインに入る広告に
「新しいSNS」みたいな謳い文句の画像が表示されます。
チラっとしか見ていないので詳しくは分からないのですが、どうやらコメント機能がついていない写真のみをアップするSNSのようです。
ん?これ、新しいの…?
なぜなら、今から20年ほど前に似たようなサイトがあったんですよね。
名前は全く思い出せない。
写メールと呼ばれる、カメラ機能付き携帯がかなり一般的になった頃に始まったサービスだった気がします。
ただ写真をアップするだけのサイトでした。コメントもつけられないし、いいね!機能ももちろんない。
なので、サイトを自分のブログやmixiと連携させて、そこに説明を加えたり閲覧した人がコメントなどを載せていた気がする…違ったかな…。
面白いもんで、淡々と写真だけを載せることに人々はつまらなさを感じ始め、リアクション欲しさに現代のSNSの形に進化していった気がします。
そして今はそのコメントやいいね!に疲れた人たちが、昔懐かしいシンプルな形態のSNSを求めている。
こういう現象を見ていつも思い出すのは「アルジャーノンに花束を」です。
超有名な話なので内容には触れませんが、人は行きつくところまで行ってしまうと虚しさを感じ、原点回帰してしまうのかなという感想を抱く人はきっと多いはず。
実際このSNSがそうですよね。発展するだけして、でもそこに見栄や欲や比較が混ざり、疲れを感じて元に戻る。
ていうか、インスタってそんなに見栄の張り合いをしているんですか?
若い人はそうなのかな。わたしは年齢的にもそこまで若いフォロワーがいないのでよく分かりません。
ああでも、友達の娘さんのインスタは加工がすごいことになってるな。
どれもこれも目がものすごく大きくて色が真っ白。しばらくぶりに偶然実物と出会った時は、最初誰だか分かりませんでした。だって体型もまるっきり別人なんだもの。
あんなに加工できるもんなんだ…技術の進歩はすごいな…。
てことは、他のインヅタグラマーの写真も同じように加工されている可能性大ですね。
アルジャーノンでもそうだったけど、自分の感情や感受性を置いてけぼりにしてみんなと同じ行動を取っても、そこには空虚や疲れしか残らないのかもしれません。
自分のしたいことをして、自分が喜べることをして、自分が満足しないと「幸せだなあ」とは思えないのかもしれません。
そして、自分は何がしたいのかを知るためにも、まずは自分自身を客観的に見れなければならない。
本の主人公チャーリィは、実験のおかげで自分の過去を客観的に理解でき、それによって解決できた家族間のわだかまりもありました。
SNSもそうかもしれませんね。急速に発達したSNSの波に乗ってみたけれど、自分は人と繋がることが好きではないのかもしれないと悟る。だから、コメント機能のないSNSへと流れていくのかもしれません。
いずれにせよ、ふと立ち止まる瞬間って大事にするべきものなのかも。
一心不乱に前に向かって進むことも必要だけど、自分が次のステップへ足を進めるためには、適宜立ち止まらなければ見えないこともあるのだと思います。
ただただ流行に乗ってSNSを登録しまくっていては、たしかに疲れそうです。
思えばあんなに流行っていたmixiも、気づけばやらなくなっていました。
たしか、誰が自分のページを訪問したかが分かる「あしあと機能」が嫌になったはず。
mixiで繋がっていたお友達が離婚したのですが、その元旦那さんが諦められなかったようで、手掛かり欲しさにわたしのページに足しげく通っていたのを「あしあと機能」で見つけてしまい、怖くなって日記を更新するのを止めてしまいました。
mixiはメインコンテンツが日記でしたから、それが滞ると他のコミュニティへの参加やゲームもやらなくなり、自然消滅したかんじ。
やっぱりね、余計な機能はあれこれつけない方がいいのかもしれません。
SNS界隈はこれからも複雑になったりシンプルになったり、そういうことを繰り返して変化していくのだと思います。
ストレスになることなく自分が楽しめる場所を見つけていけたらいいですね。
感謝日記
久々に友人とお喋り
メスティンでご飯がおいしく炊けた
早朝ウォーキングができた