何気なく見た心理学系YouTubeで得た新たな教養。
「共感はするけど同情はしない」
そして、何が共感で何が同情なのかを説明してくれており、わたしはそこで自分が勘違いしていたことを悟りました。まるっきり逆だと思っていたのです。
あまりの衝撃でまだ頭の中がまとまっていませんが、ざっくり言うとこんな感じのようです。
共感は、その体験をした相手の立場になって考える。
同情は「もし自分がその体験をしたら」と考え「自分の感想」を述べる。
定義や意味だけではピンとこないので、具体例を上げながら自分用に掘り下げようと思います。
たとえば、「昨日お父さんが夜中の2時に帰ってきて、朝までずっと怒鳴り散らしてたんだよね。」という話を聞いたとき。
共感の場合は「それは大変だったね。寝不足で辛いんじゃない?」
同情の場合は「それはかわいそう。その環境は良くないよ。」
ちょっと極端ではありますが、たぶんこんな感じだと思います。
共感の場合は事実ベースで考えるため、シンプルに寝不足は辛いだろうと察するようです。
対して同情の場合、もしも自分の身に同じことが起きたら…と想像ベースで語るので、「それはかわいそうな状況だし、自分はそんな環境下で生きていたくない」=良くない。に繋がるようです。
同情するのがダメなわけじゃないけど、人間関係で適切な距離を保ちたいなら同情よりも共感の方がおすすめなんだと思います。
しばらく考え込んでしまいました。なぜならわたしは子供の頃、「おうちがそんなことになっているなんてかわいそう」と誰かに言ってほしかったからです。同情から差し伸べられる救いの手を求めていたのだと今ならわかります。
毒母は見栄の塊でしたから同情されることを嫌悪していました。誰かがわたしを見て「かわいそう」と言おうものなら、噛み付くように「うちの子はかわいそうじゃありませんから!」と突っぱね、わたしに向かって「いいかい?アンタはかわいそうじゃない!恵まれてる!全然かわいそうなんかじゃない!」と叱りつけたものです。
ある意味それは正しいのかもしれないけれど、でもわたしは正直嬉しかった。自分のこの状況をかわいそうだと思ってくれる人がいる、それだけでかなり心が軽くなったのを覚えています。
フランダースの犬に出てくるネロのように、みんなに可哀想だと思われながら天に召されるのが理想的なエンディングだなと本気で考えていたものです。
「あの子可哀想だったの?全然知らなかった」と言われることの方が辛かった。それだとみんな毒母の発言を鵜呑みにしていたことになりますから。
そんなわけで、わたしはずっと同情を求めていたわけです。それが不健康であると本日やっと知りました。
根本的に直していかなければなりません。少しずつ、日記にしたためながら頭を整理したいと思います。
感謝日記
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