「受け入れる」は理解しきれない事象に対してすること。理解できないと理解すること。
宇多田ヒカルさんのツイートです。
以前にも引用したかもしれません。
「受け入れてほしい」という思いが強まると、なぜか「理解してほしい」という欲求が高まってあれこれ聞かれてもいないことを激アツに語ってしまいがちですが、そうじゃないのかもしれない。
どんなに詳しく聞いたって、わからないことはやっぱりわからないんですよね。
そして、分からなくても味方でいることはできるんですよね。
わたし自身、好きな人たちの全てを知っているわけではないけれど、でも何かあれば味方でありたいという心構えでいます。
むしろ、全てを理解して助けを差し伸べるのは依存に繋がってしまい、望む結果にならないかもしれません。
今年はあちこちでカウンセリングを受け、夫や毒母のことを相談しました。
この人たちはモラハラであり、わたしは精神的に虐待を受けて育ったと認め受け入れられたのは、自分にとって大きな一歩です。
そして、相談するうちに「味方」と「依存」の違いも少しずつ見えてきました。
カウンセラーの方々は細かいことまで聞いてこないし、ある程度の情報を得たらそれ以上わたしが話しても上手にスルーします。
最初はその反応が冷たいと感じたけれど、たぶんそれは違う。
「手を差し伸べるのはここまで」と線引きして自立を促してくれているのだと思います。
自分でも気づいていない、自分の中の依存心。
これとどう向き合うかが今後の課題なんだろうなぁ。
わたしは本当にその辺が不器用で下手くそで、プライベートでも職場でも「もっと頼ってください。」と言われてしまいます。その割にカウンセリングでは「私たちができるのはここまで」とラインを敷かれる。自分をコントロールできていないと知り、未熟さを恥じた1年でした。
受け入れ方も時代によって変化しているのかもしれません。
男尊女卑の文化が強かった時代は女性の自立を許さなかっただろうし、女性の辛さを受け入れる文化もなかったかもしれません。
でも今は違う。
毒母はそれに対し「今の考え方だってどうせ将来変わるんだから、時代について行く必要なんかない。宗教の教えだけ取り入れればいい。」と言いますが、実は宗教の教えも時代に合わせて変化しています。基礎はずっと同じだけど応用の仕方が変わっているんです。
そこに気づけるかどうかは、やはり「今」の考えを受け入れているかどうかにかかってるんじゃないかな。
凝り固まりたくありません。
柔軟に、しなやかに。
あたたかく受け入れる人を目指したいものです。
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