フワちゃんの一件について、やす子さんは許すとコメントしています。
この「許す」って、すごく難しい。
自分が実際に許す時も、傍目にそれを解釈するのも難しい。
基本的に思うのは、「許す=なかったことにする」ではないんですよね。
例えば極端な例でいくと、配偶者の浮気や不倫を許したとしても、謝罪や慰謝料はきっちり要求する、みたいな。
わたしはそういうことかなと認識しています。
これはわたし自身の考えでもあるし、宗教から学んだ価値観でもあります。
100万円貸したけど返してくれない人を許し、その100万円について取り沙汰することはないけれど、その人にはもうお金は貸さない。
わたしの宗教の教えはこんな感じです。
が、勘違いしてる信者は山ほどいます。許された側がその許し度合いを決めたりね。さっきの100万円を例に出すと、許された側が「あなた許すって言ったじゃない。だったらまたわたしにお金を貸しなさいよ。」と強要するパターンが、少なからずあるんです。
そう考えると、許すってすごく勇気のある強い行為だと思います。単なる慈悲だけでは片付けられず、その後の流れを見届ける強さも求められるんだろうなと。
今回のことでフワちゃんは仕事を失ったりしたけれど、やす子さんは許したのでもうそこに関与はしないと思います。「許したんだから降板は勘弁してください」などとフォローする必要は全くないし、逆に「あんな無礼な人にこの仕事はさせないで」と意見することもしない。許すって、そういうことです。
許されたフワちゃんにも覚悟が必要で、やす子さんに許されたとは言え、コメントをなかったことにはもうできません。ちょっとした冗談のつもりでも、内心そんなこと思ってなくても、実はプライベートでトラブルがあったにしても、失ったものは取り返せません。許されたことに甘えてはいけないのだと思います。
わたしも長年悩み、許したり許されたりを繰り返してやっとこういう考えに辿り着きました。
ですが、毒母は全く別の解釈をしているためやはり難しいものがあります。
許しが成立するためには、双方の解釈や価値観の擦り合わせも必要なんじゃないかな。
ほんと、人間関係って難しいですね。
感謝日記
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