信者さんの中に90歳を超えたご婦人がいらっしゃいます。
品が良くて穏やかでちょっとお茶目で、まさに敬虔な信徒といった感じ。
年齢を感じさせないシャキシャキとした動きで、わたしはいつも感心させられているのですが。
ある日、その方から「コロナも少し落ち着いてきたことだし、お昼ご飯でも一緒にどうかしら。」とお誘いを受けました。
「お寿司の出前を取ってあなたの家に届けるようにするわ。来週の…そうね、10日なんかどうかしら。そのくらいの時間にわたしも伺うようにするわね。」
「いいですね。わたしお迎えに行きますよ。」
「ありがとう、嬉しいわ。その日、ご主人はお仕事?」
「ええ。」
「それは残念ね。じゃあご主人は今度にして、10日のお寿司は2人前注文するわね。」
こんなやり取りで約束を取り付けたのですが。
その前日の9日、なぜか10日に届くはずのお寿司が我が家に届いてしまいました。
受け取ったのは休みで家にいた夫。頭にハテナを浮かべながら受け取ったそうです。
その後わたしが帰宅しまして、寿司桶を見てやはり「???」。
ご婦人が注文の日付を間違えたのか、はたまた寿司屋が間違えたのか。
とりあえずご婦人に電話をして事の顛末を説明します。案の定最初は驚かれたのですが、その後
「でも届いてしまったものは仕方がないわね。ぜひ召し上がってちょうだい。ご主人にもいつかご馳走して差し上げたいと思っていたからちょうど良かったわ。明日の分はまた頼み直せばいいから。楽しみね。」
と、特段怒るわけでもなくあっさり一件落着してしまいました。
誰が悪いとかどこでミスをしたとか、そういうことをねちねち追求しないサッパリした対応に思わず感動してしまったわたしです。
場合によっては原因の追及も必要ですが、まあお寿司ですし。誰のせいとか揉めるよりも、傷まないうちにお寿司を食べちゃった方がいいよね的なその思想。
そして、間違って届いたからこそ主人にもお寿司をご馳走できたと喜ぶ発想の転換。
素晴らしいな、と思いました。
こう言ってはアレですが、ランチセットでリーズナブルだったこともあると思います。これが数万円のお寿司だったらこうはいかないかも。
何はともあれ大した騒ぎになることもなく、最終的には夫もわたしもご婦人も、お寿司にありつけて満足満足。
ちょっとしたハプニングが起きたとき、わたしもこうあれたらいいなと思います。
いつまでもいつまで、食べ終わってもその後何日過ぎても「あれは自分のせいじゃない。店が悪い」などと言い続ける人間にはなりたくありません。
間違いも発想の転換でポジティブに捉えられる人にわたしもなりたい。
さらにご婦人は「今まで何度もあのお店で注文してきたけれど、こんなことって初めてだわ。きっと神様がご主人にお寿司を食べさせてあげたいと思ったのよね。よかったわ。」と笑顔で仰ってました。
本当の信仰って、こういうことが言える人に宿っているんじゃないかと思います。
宗教がいいとか悪いとか、ヤバいとか最低だとか議論が交わされる昨今です。
わたしも毒母が宗教を盾にし虐待をしてきたことは許せません。
でも、それよりも、
このご婦人のような次元で神さまを信じる人になりたいなと強く思います。
感謝日記
目標歩数達成。
お仕事が順調。
親切な仕事仲間に感謝。