マンガワンというアプリで「血の轍」を読んでいます。
毒親育ちという自覚のある人は、読むと自分の記憶と心に整理がつくと思います。
わたしは毒母への感情にある程度見切りがついているので、過去の記憶を整理しながら読んでいる感覚があります。
「あれって、イヤなことだったんだ。」
「あの時の自分の気持ち、こういうことだったんだ。」
5年近くの歳月をかけ、出来事をじっくりゆっくり思い返しながら「この人間はやっぱり毒母だ。」という自分の考えを、筋肉のように鍛え上げ強くしてきました。
この漫画は、その「自分の母親は毒親である」という土台をさらにギュッと踏み固めているように感じます。
総仕上げとでも言いましょうか、地盤を締める転圧作業をしているような感覚です。
「子どもなんか親の奴隷だ!」そう言われて育ちました。
わたしは単純に、それは「毒親の発する酷い言葉」だと思っていて。
だから、もし介護の問題などで周囲の理解が得られないときは、このエピソードを引っ張り出せば納得してもらえる証拠として使えるんじゃないか、程度にしか考えていませんでした。
ですが、漫画の中で「どれい」という言葉が出てきたとき、認識がグラリと揺らぎました。
「あなたの思い通りに生きてきた!…自分から…どれいになりたいって思わされて!」
あ、そうか。そうだったんだ。
わたし、ほんとうにどれいだったんだ。
そう思わされていたんだ。
「自分自身を、毎日毎日毎秒毎秒、押し殺して傷ついて、傷ついてるってことも気づいちゃいけないまま、殺し続けて…苦しかったよ!死ぬほど!」
そうか。傷ついてたよね、そういえば。
だからあんなに苦しかったんだ、わたしは。
わたしの毒母は子どもを傷つけることに無頓着でした。
「子どものクセに、何が”傷ついた”だ!そんな軟弱な心じゃダメだ!」
「子どもが傷ついたからって親が謝ってるようじゃダメだね、ロクな大人に育たないよ。」
「こんなことで傷つく方が間違ってるんだ!」
傷つく言葉で攻撃され、そこにダメージを受けているとさらに攻撃されるのです。
だからこんなに「奴隷」という言葉が引っかかってたんだ。
「わたしは母の奴隷でありたい」と願うよう強制されていたんだ。
そりゃあイヤだわ。
たぶん、自分の中に沁みつきすぎて気づいていない呪いが他にもたくさんあるんだろうな。
こうして、主人公はようやく少しだけ毒母から解き放たれます。
そして皮肉なことに、毒母を客観視してしまうのです。
これまではずっと「ぼくから見たママ」でした。自分から見るママの存在に恐怖と苦しみを感じていました。
ですが、毒母との間にわずかな距離が生まれると、今度は「ママから見た自分」という視点を得てしまうのです。
ママは息子に見放されたくない一心で息子に怯えていました。
すごく屈折している感情です。こんなに縛り付けていたらいつか息子は自分から離れて行ってしまう。ひとりぼっちになったらどうしよう。見捨てられたくない、嫌われたくない。
それに気づいた息子はショックを受けます。
自分の存在がママを追い詰めていたなんて、と。
本当に苦しんでいたのはママだ、そしてママを苦しませていたのは僕だ、と。
この考え方は間違っています。
毒親は非常に狡猾なため、子どもを攻撃する自分を被害者に仕立て上げます。
「子どもにこんなことを言わなきゃいけない私は可哀そう!被害者だわ!」そう考えています。無責任にも程がありますがそれが事実。
子どもは自分を責めるクセがついているので、それを知ると「やっぱり自分が悪いんだ」と考えてしまうんですよね。
子どもを責めるクセがついている毒親。
自分を責めるクセがついている子ども。
変な言い方だけど、需要と供給がバッチリ。
わたしも身に覚えがありますが、「苦しかったのは自分だけじゃなかった」と思うと、親と分かり合えたような気分になってしまうんですよね。
これで本当の親子になれるかもしれない。
そんな淡い期待を抱いてしまうのは、それが人間の本能だからでしょうか。
だけど、子どもが思い描く「本当の親子」と、毒親が思い描く「本当の親子」は全くの別物。重なる部分がひとつもない。
だから、考えれば考えるほどギャップが埋まらず混乱するんです。
どこで納得したらよいのか分からない。
どこまで歩み寄ればいいのか見当もつかない。
「本当の親子」になれた気がしたのに、親からの愛情を感じない。
主人公はまだこの渦の中で苦しんでいます。
わたしはどうやってそこから抜け出したんだろう。
「これ!」という決定打があったわけではなく、いろいろなものが折り重なって気づいたら脱出していたように思えます。
抜け出せた今だから、冷静に読んで分析できているのかも。
すごく興味深い漫画です。
またいつか、これについて書くかもしれません。
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