ここ数日、ネットの至る所で「一粒万倍日」という言葉を目にしました。
他にも良い日が重なったようで、最強開運日とも言われていました。
宗派の違うわたしには詳しいことはわからないし信じている神様も違うため、特にご利益とか幸運が舞い込むことはありませんでした。そりゃそうだ(笑)。
それよりも、一粒万倍日を信じて日々の生活に取り入れておられる方々の元に、嬉しいことや楽しいこと、笑えることがたくさん起こっていたらいいなあと思います。
もしかすると戦時下のウクライナや内戦下のミャンマーにも一粒万倍日を信じておられる方がいらっしゃるかもしれません。
そんな方たちに、「最近全然いいことないけど、今日はずいぶん笑ったなあ」と思えるようなことが起きてくれていたら、それはそれで嬉しいのです。
また、毒親からの虐待で辛い日々を過ごしている人の中にも一粒万倍日を信じている人がきっといるでしょうから、彼らが毒親の脅威に怯えることなく一日を過ごせていたらいいな、とも思います。
こう書くとなんだかずいぶん善人ぶっているように見えますね。
まあ、善い人でありたいなとは思っているのでそう見えてもいいんですが。
ポイントは、幸せな人は他人を攻撃したり妬んだり搾取したりしないから、自分のまわりにいる人が幸せだと自分も安全に心地よくいられる、ということ。
これ、1年くらい前にネットでどなたかがつぶやいていたことなんですが、まさにその通りでハッとさせられました。
もしも周囲が不幸な人だらけで、自分一人だけがニコニコ幸せそうにしていたら。
「アイツだけ幸せになるのは許せない」という負の感情が生まれ、やがてイジメに発展するかもしれません。
もしも周囲がみんな一文無しで自分だけがリッチだったら。
これはもう、いつ襲われてもおかしくありませんよね。
満腹なライオンがインパラを襲わないのと同じように、人は正しい状態で満たされていると他人を攻撃しなくなると思います。
だからわたしは多くの人の幸せを願います。
そうすれば、毒親のような「他人の不幸を見ると幸せになる」みたいな奴らの居場所もなくなるし、ちょうど良いですよね。
あいつら、他人の不幸を見たいがために幸せな人の足を必死で引っ張りますけど、奴らの手が届かないくらい高みに行けばそんなこともなくなります。なのでわたしは何年もかけて高みを目指しているんです。
中には「幸せは独り占めしていはいけないから、自分にもよこせ」などと図々しいことを言ってくる人もいます。日本人に限らず、海外にも大勢います。
彼らの言う幸せがなんなのかよく分かりませんが、とにかく彼らも満たされればそういう野蛮な発言もしなくなるでしょうから、やっぱり周囲の人たちが幸せであるに越したことはありません。
あと思うんだけど、幸福の要求はこっちじゃなくて自分の神様にしてほしい。
他人への圧は手っ取り早く幸福を搾取するのにちょうどいいかもしれないけれど、それじゃあ信仰している意味がない。
一粒万倍日を解説しているカウンセラーさんたちにも「あなたの言う通りにしましたけど何もいいことありませんでした」って文句つけてくる方がいらっしゃるようですが、カウンセラーさんがその日を作ったわけではないですよね。
その日を制定した神さまとか宇宙とか、とにかくメーカーに問い合わせればいいんじゃないでしょうか。
こう考えると、幸せというのはシンプルで奥が深いですね。
人によって幸せの基準もさまざまです。
自分にとってのしあわせの基準を客観的に分析してみることも大切だと思います。
そうすると、何も良いことが起きなかったと思っていた一粒万倍日に、実はたくさんの幸せが訪れていたかもしれません。
さて、わたしの身にはとくに何も変化のなかった昨日。
その代わり、楽しいことを自分で作り出そうと思います。
来週は仕事の勤務場所が一時的に変わるので、いつもより1時間早く家を出て散策してみようと思います。
せっかく普段行かない場所へ出向くのですから、ちょっと探検気分です。
おいしそうなモーニングを提供しているカフェがあったら、そこで朝ごはんにするつもり。
偶然素敵なお店を見つけるのもいいけど、事前にネットでチェックするのもわくわくしますね。
口コミに載せられている写真がどんどん上手になっているせいか、目に留まるカフェやレストランがたくさん。
主婦にとってはこういう小さな非日常がすごく嬉しかったりします。
文句を言うのは簡単です。
「朝起きる時間が変わるから大変」「なれない環境で仕事をするのはストレス」。
でも、どうせならわたしは楽しい方に考えたい。
「1時間早く起きるだけで探検ができる」「ステキなカフェを発見できるかもしれない」
そのほうが、一粒万倍日のおこぼれにありつけるかもしれませんしね。
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